小説を書く猫/中山可穂

 

 

 

おっさんずラブの最終話を無事見届け、放心状態となっている。

 

 

まだ月曜日であり、3日しか経っていない。(体感的には2日)、所謂ロスになっている。最終話のあるシーンを何度も何度も再生し、その度に「ウッ、、、とおとひ、、、(泣)」となっている。そんな日々があと何日続くのであろう。。

 

 

 

所謂同性愛などは否定してるわけでも嫌いでもないが、特段興味もなかった。だがこのドラマを観て、意識が変わった。もっと世間一般に、広く浸透されたらいいなと思った。性別も年齢も関係なく、ただ人を好きになることで差別や偏見が生まれるのはとても悲しく寂しいことだと思った。自分が何か行動を起こし国民に呼びかけることはできないが、私一人でもこのドラマをきっかけに視野を広く持とうというゆとりが生まれたことはどこかに記しておこうと思ったのだ。どうか優しい世の中になりますように。平和な世界になりますように。おっさんずラブを観て世界平和まで祈り出すのだから、このドラマの影響力は計り知れない。

 

 

 

 

本題である。

 

おっさんずラブに感化され、中山可穂の小説を久々に読んでみることにした。と言ってもこれはエッセイ集であり短篇集でも長篇小説でもない。

 

中山可穂といえば、自らのセクシュアリティを公表、自らの肉を削ぎ落とし、自らの血で小説を書いているような作家だ。初期の小説はその血が色濃く染み付いており、読むには大変な労力がいる。手足や臓器や皮膚や細胞、脳などの身体のあらゆるすべての全神経を使って作り出しているのだ。読む方も事前の心構えが必要なのだ。

 

 

 

「小説を書く猫」


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実は既に一回読んでいる。

私はほとんどの小説を図書館で借りて読むので、同じ本を借りるということはほぼない。

 

中山可穂の小説が全てあるわけではないが、図書館にあるものは「天使の骨」以外すべて読んでしまった。それじゃあ天使の骨とやらを読めばいいではないか、となるだろうが物事には順序がある。

 

 

 

というわけでエッセイ集だ。

これは私が初めて中山可穂を読んだ記念すべき本なのでとても思い入れがある。

 

この世界には好きになってはいけないひとが多すぎる

掴みともいえる最初の章で突然のカミングアウト。(私にとってだけど。)これがキッカケで中山可穂の虜になった。レズを公表しているその強さにも惹かれたけど、いちばんは読みやすさ。

 

 

海外旅行がどうとかタンゴがどうとかの話を、もし自分の愛しい恋人がしていたとしてもまるで興味がないだろう。たとえそれが自分にとって心地よい声のトーンや大きさや話術だとしても。それなのに見ず知らずの作家の話はするすると聞ける(読める)のだ。難しい言葉を使っているわけではないが、知性を感じる。中身があり説得力がある。ただだらだらと話をしているわけではない。

 

これを初めて借りた次の日、私は東京へ向かう高速バスの中にいた。普段小説は持ち歩かないし移動中は寝る時間として、スマホを触るのもそこそこにただひたすら寝る女である私が、睡眠時間をぶっ潰してまで読んだのだ。バスが休憩場所のSAに止まっても、私は黙々と読み続けた。さすがにトイレ休憩には行ったと思うが、ここまでページを捲る手が止まらない作家に、私は出会ったことがない。

 

 

中山可穂を読むと、そのへんの恋愛小説がクズのように思えてくる。と言うのは言い過ぎだと思う…。だけど、圧倒的な熱量が違うのだ。ここまで癖のある作家の虜になったのでは、普通の作家の恋愛小説に満足しないのももはや当たり前というか、「でしょうね」という感じだ。

 

 

でもエッセイ集は割と読みやすいですよ。中山可穂を知らなくても読んで大丈夫だと思いますし、むしろここからスタートした方が入り口としてはベストなのかもしれないと思うようになりました。